| 家族の血を受け継ぐ、世界一古い時計会社 250年以上の歴史のあるドゥボワー社は、当時スイスの三大時計産業都市である、ル・ロックル市にあります。 ル・ロックル市は、1200年前に設立された山間にある街です。 1700年、ル・ロックル市は大規模な火事があり、街の中心部がほぼ破壊されました。 1684年、ドゥボワー家が住宅及び店鋪として買い取った建物は、その火災の中奇跡的に残り、今でもその建物がドゥボワーの本社として登録されています。 ドゥボワーという名前が歴史に出るのは、1512年、初めてル・ロックル市の市民帳に登録されました。 1743年、モゼ・ドゥボワーが、ル・ロックル市から時計販売の許可を得て、当時行っていた、布の製造販売とともに、時計の販売も行うようになってきました。しかし、商売の主は布で、当時の時計販売は小規模なものでした。 1760年、モゼの子、フィリップ・ドゥボワーと、イザベルが今までの家業を引き継いだころには、時計の販売も規模の大きいものとなり、フランス製クロック、スイス製の懐中時計とともに、時計製作の製造道具の販売も行っていました。 1764年、イザベルが結婚し嫁いでしまった時点で、フィリップ・ドゥボワーは一度会社をやめ、再度、『フィリップ・ドゥボワー』として社名変更を行い、事業内容から、布の製造販売を削除し、本格的に時計の製造販売を行う企業として登録されました。 その頃には、地元の懐中時計を作る技術士から、部品、半完成品、及び完成品を買い、自社の工房で最終加工をおこない、文字盤に『フィリップ・ドゥボワー』の名を刻むようになりました。 当時、時計を製作するのは、個人の制作者の仕事で会社としてやっていくのは、歴史上から見ても大変珍しいものでした。 また、その時代から、ドゥボワー家は、様々な国へ移住するようになり、多くの国々へのつながりもとれるようになりました。得にドイツでは、フランクフルト市の展示会などに積極的に参加し、名を広めていきました。 1764年から約10年かけて、1300本の時計を売り、そこから徐々に業績をのばし、年間360本を売る企業へと成長していきました。そのころには、フィリップ・ドゥボワーは世界一大きい時計の貿易企業となっていました。 1792年、フランス革命の時代、フィリップ・ドゥボワーは年間6900本もの時計を販売しました。世界中に移住した一族のおかげで、ヨーロッパだけでなく、アメリカまで輸出を行うようになりました。 1785年、時計の整理番号は2万を越え、同年、フィリップ・ドゥボワーの息子アンリーが入社したのを機に、社名を現在の『フィリップ・ドゥボワー・エ・フィルズ』に変更し、正式に時計製作企業としてスタートしました。 |
||||||||
![]() |
||||||||
|
現在でもル・ロックル市にある
ドゥボワー本社 |
||||||||
![]() |
時計歴史家のなかで、現在残っている企業で、一番古い時計ブランドはどこかということについて、様々な議論があります。 ある時計歴史家は、バセロン・コンスタンチンは1755年、正式に時計ブランドとして製造していると登録されているから、バセロンに違いないといいます。ドゥボワー社は1755年当時、企業としての登録はありますが、事実上時計は作っておらず、正式に時計ブランドとしていえるのは1785年からで、現存する時計製作企業として、歴史的に二番目に古い時計会社である。といいます。 しかし、1755年前からドゥボワー社は、時計を扱う会社として存在しており、なにより、現在に至るまで、一族の血を絶やさず、経営者は当時のままドゥボワー一家の人間が引き継いでいます。時計企業において、一族の血を絶やさず、会社として100年以上経営を続けること自体、大変名誉なことであり、真実の意味でもっとも歴史深い企業はドゥボワー社である。という時計歴史家もいます。 ドゥボワー社の時計は、1780年頃のものから、現代生産のものまで、様々なスイスの時計博物館におさめられています。 |
|||||||
|
1900年製
ドゥボワー記念ポスター |
||||||||
|
1808年、フィリップ・ドゥボワーが亡くなり、息子ジュール・アンディ・ドゥボワーが会社を引き継いでいきました。同年、オランダ・アムステルダムにおいて、初めて海外支社を設立しました。 1837年、ジュール・アンディ・ドゥボワーが亡くなったあと、弟ジュール・ドゥボワーが後を継ぎました。1844年、スイスでは南北革命が勃発し、(その時代まで、ル・ロックルはドイツでしたが、この後、スイスの一部となりました)、ジュール・ドゥボワーはドイツ・フランクフルトに亡命し、そこでドイツ支社を立ち上げ、スイス本社の営業を、息子フィリップ世、シャーレー、アンリに任せるようになりました。 1904年、シャーレーの息子、カート・ジュールズ・ドゥボワーがスイス本社の社長に就任しました。 当時のドゥボワー社の代表的なものは、男性用・女性用の懐中時計で、普通の機能のみだけではなく、リピーター付きのもの、クロノグラフ機能付きのものなど、様々なバリエーションを製造販売しました。 他にも、携帯用目覚まし時計、卓上用クロック、車内用クロックなどを生産していました。とくに車内用クロックは当時、自動車に時計が付いていなかったため、需要が多く、現在でも当時のドゥボワー社製のものが、様々な博物館に保存されています。 カート・ジュール・ドゥボワーの時代は、世界情勢も不安定で、顧客のニーズも変化する激動の時代でした。しかし、彼は、様々な状況にも柔軟に対応し、会社の経営を存続させました。 1910年から、懐中時計から腕時計への切り替えを行い、初めて製作した腕時計は女性用シリンダー脱進機搭載の腕時計であり、この後、『オートリスト』と呼ばれる自動巻システムの時計等様々を作り出しました。 世界恐慌の時代を迎えると、時計の需要は大幅に減り、他の時計企業と同様、技術士達を、スイス政府に道路整備の要員として、派遣させました。 数年後、第二次世界大戦を迎えると、ドイツの国防庁との契約により、驚く程需要が増え、24時間経営に近い状況で、腕時計の生産を行いました。 戦争が終結すると、また、世間の需要に合わせ、高級腕時計を生産するよう変化しました。その時代から、現代のスタイルである、特殊または、昔の稀少価値の高いムーブを搭載した、限定の腕時計を生産するようになってきました。 当時、ドイツ、ベルギー、オランダ、イタリアに代理店があり、クォーツ革命の時代(1980年代)多くの時計企業がなくなってしまう中、懐中時計を中心に切り替え、稀少価値の高い腕時計をそのまま生産し、クォーツ革命を生き延びました。 1993年、今まで生産していた稀少価値の高い腕時計がコレクター達の目にとまるようになり、再び需要が延びてきました。 1995年、非常に珍しい懐中時計を作ることで有名なコモール社と、世界中で評価されたビューレン社を買収し、ドゥボワー社三社の販売を任せる企業、シュワイザー・ウレン社を立ち上げました。 現在でも、ドイツ支社、及びスイスの本店を中心に、営業を続けています。 また、スイスの本社は、ドゥボワーの約250年の歴史、時計や資料をおさめた博物館として、多くの時計マニアの為に、一般公開を行っています。 ドゥボワー社は現代において、大規模な時計企業ではありませんが、250年の間、様々な社会の変化に耐え、自己の家族の血を絶やさず、製造販売を行っています。 |
||||||||